★商品状態について★
ユーズド商品です。
無疵の商品で、使用感も少ないとても綺麗な状態のお品です。
割れ、欠け、ニュウなどなく、汚れや擦れもありません。
水を入れて確認しましたが、水漏れもありませんので安心してお買い求めください。
◆鵬雲斎宗匠より箱書きをいただいております。
作者は和田桐山 こちらは三代の作でございます。
祥瑞写の水指の作品で、造形は胴裾が丸く張った芋頭形です。
蜜柑形ともいい、蓋は本歌に倣って蜜柑の軸を蓋の摘みとし、小さな葉を浮き彫りにして添えています。
この蓋の摘みの造形が見事です。
目の覚めるような白地に透き通る青の色合いがとても素敵で、筆使いによる濃淡が絵付けに立体感を持たせています。
お書付があるのに塗蓋に朱印がないのもあるようですが、蓋がないときには書けないからかもしれません。
もちろんお席に使っていただける素晴らしい作品です。
いつの時代も人気な芋頭水指ですので、この機会に是非どうぞ!
共箱、布(印なし)、栞、風呂敷付きでの販売です。
共箱は盛蓋の組箱で、とても上質なお箱です。
★寸法★
高さ(摘み含む) 19.5cm
径 19.5cm
●琴浦窯 和田桐山
三代大正6年(1917)~平成6年(1994)
初代の長女弘子と養子縁組 本名春雄 日本画を牛尾桃里に学び初代の下で作陶、二代没後三代桐山を名乗る
四代は平成8年(1996年)に襲名。
明治34年、尼崎藩主に外科医として仕えた和田信景の孫である和田九十郎正隆が数寄者窯として西宮大社村に開窯しました。
兵庫県庁勤務時代に淡路島に陶器学校を建設しようとしたほどの陶芸好きで、県庁を辞めて陶芸一筋の道を歩みました。
明治43年、その二男である正兄(マサエ)が尼崎市東桜木町に移窯しました。兵庫県武庫群精道村に御庭焼の築窯にも正兄が関わり、これが打出焼の発祥となりました。
その昔、藤原道真が船から見えるこの美しさに感動して立ち寄り、「ここは殊のほかのよき浦なり」「松は琴柱の並びたるが如し」と賛美したのが琴の浦の地名の由来です。
天正10年、本能寺の変を聞き、毛利攻めから駆けつけた羽柴秀吉「後の豊臣秀吉」が明智光秀の伏兵を逃れるために身を隠したと言い伝えが残る広徳寺が近くにあります。
九十朗正隆が、豊臣家の家紋である桐にちなみ陶号を桐山、琴の浦の地名から窯名を琴浦窯と称しました。
大正12年に五室の連房式登り窯を築窯し、それより白磁、青磁、染付、金襴手、京焼系統としての色絵物、等多種多様な技法で煎茶器、食器、花器、茶道具を焼成してまいりました。
また、昭和22年、天皇陛下兵庫県行幸の際にはご宿泊所に作品十五点を陳列天覧に供し、兵庫県文化賞を受賞いたしました。
煎茶器には翁草園の印を使用しておりますが、翁草園は正式には「きくその」と読み、和田家が尼崎藩の典医時代から代々用いている園号で、楠木家「正成公」、和田一族で菊水の家紋に因んでいるものです。
以後変遷を重ね現在に至っております。