★商品状態について★
ユーズド商品です。
時代感はありますが、目立った疵や汚れ等ございません。
画像にてご確認ください。
名工和田桐山氏によって造られた美しい作品です。
共箱、共布(印あり)、経歴書付きでの販売です。
★作家★
琴浦窯 和田桐山
明治34年、尼崎藩主に外科医として仕えた和田信景の孫である和田九十郎正隆が数寄者窯として西宮大社村に開窯しました。
兵庫県庁勤務時代に淡路島に陶器学校を建設しようとしたほどの陶芸好きで、県庁を辞めて陶芸一筋の道を歩みました。
明治43年、その二男である正兄(マサエ)が尼崎市東桜木町に移窯しました。兵庫県武庫群精道村に御庭焼の築窯にも正兄が関わり、これが打出焼の発祥となりました。
その昔、藤原道真が船から見えるこの美しさに感動して立ち寄り、「ここは殊のほかのよき浦なり」「松は琴柱の並びたるが如し」と賛美したのが琴の浦の地名の由来です。
天正10年、本能寺の変を聞き、毛利攻めから駆けつけた羽柴秀吉「後の豊臣秀吉」が明智光秀の伏兵を逃れるために身を隠したと言い伝えが残る広徳寺が近くにあります。
九十朗正隆が、豊臣家の家紋である桐にちなみ陶号を桐山、琴の浦の地名から窯名を琴浦窯と称しました。
大正12年に五室の連房式登り窯を築窯し、それより白磁、青磁、染付、金襴手、京焼系統としての色絵物、等多種多様な技法で煎茶器、食器、花器、茶道具を焼成してまいりました。
また、昭和22年、天皇陛下兵庫県行幸の際にはご宿泊所に作品十五点を陳列天覧に供し、兵庫県文化賞を受賞いたしました。
煎茶器には翁草園の印を使用しておりますが、翁草園は正式には「きくその」と読み、和田家が尼崎藩の典医時代から代々用いている園号で、楠木家「正成公」、和田一族で菊水の家紋に因んでいるものです。
以後変遷を重ね現在に至っております。
☆寸法
高さ 5.5cm
径 7.8cm×5.3cm
★増田がサポートしています。